
GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(8)師匠プニャーニとのヨーロッパ演奏旅行

ヴィオッティは24歳の時、1779年の終わり頃、先生のプニャーニに随行してヨーロッパ演奏旅行に出発し、スイス、ドイツ、ポーランド、ロシアを回り、その帰国の際にパリに立ち寄り、そのままパリに長期滞在することになった。
ヴィオッティはそれ以前の1773年頃、プニャーニに同行してロンドンとパリを訪れている形跡がある。
この度のヨーロッパ演奏旅行ではジュネーブが最初の訪問地で、そこでの成功に続いてベルン、ドレスデン、ベルリン、ワルシャワ、サンクトペテルブルクを訪問している。
この演奏旅行については、リスターはブランドというイギリス人が旅行先のジュネーブから当地の音楽事情を報告して友人へ送った手紙に基づいて、プニャーニとヴィオッティのジュネーブでのコンサートについて詳しく紹介している。
また、当時ベルリンに滞在していたサルデーニャ王国宮廷外務官フォンタナの手紙を基にして、ヴィオッティらの旅行の経過を明快にまとめている。
ジュネーブでのコンサートは2年間におよぶ演奏旅行での最初のコンサートで、1780年1月に行われた。
ジュネーブは当時サルデーニャ王国の北西の端に接しており、首都トリノとの文化的交流が深かかった。
旅行者がサルデーニャ国内を通って行き来するにはモンテ・チェニジオ峠(フランス語読みでモン・スニ峠)からシャンベリーを通るのがジュネーブへの道であった。
プニャーニとヴィオッティのヨーロッパ演奏旅行の最初の地ジュネーブにはスーザの町からモンテ・チェニジオ峠を越え、シャンベリーを経て向かったのだろう。
ジュネーブでは1780年の1月から市民会館で毎週コンサートが開かれ12週間続いた。
そのプログラムは2部からなっていた。第1部では序曲、歌曲に加えて主要プログラムとしてヴァイオリン協奏曲が組まれていた。
このヴァイオリン協奏曲を演奏したのはヴィオッティとアンボー(Jean-Jerome Imbaut)で、2人は週ごとに交互に出演していた。
第2部では、ヴィオッティはヴァイオリン独奏曲を演奏していた。すなわち、ヴィオッティは1週間おきに協奏曲を弾き、毎週ソロのヴァイオリン曲を弾いたが、その曲目は明らかでない。
協奏曲は恩師プニャーニの曲か、あるいは自分の曲を演奏したものと思われる。
ヴィオッティの最初のヴァイオリン協奏曲である第3番はこの旅行中にベルリンで出版されたが、この旅行以前にトリノで作曲されたと考えられている。
したがってジュネーブでの連続演奏会でも演奏された可能性はある。
ジュネーブの音楽事情を報告しているブランド氏はそのコンサートの批評で、ヴィオッティはこれまで聴いた最高の演奏家の一人であると指摘している。
「彼の音色と演奏は共にすばらしく、それに加えて釣り合いの取れた美男子で、すばらしく易々と上品に演奏する。
いずれ彼はイギリスを訪れるであろう」と予言している。
また、交互にヴァイオリン協奏曲を弾いたアンボーについては、「大変よい演奏家だが弱々しい」と述べている。
ブランド氏はプニャーニの演奏も聴いたが、これらの演奏者うちで「ヴィオッティが最良の演奏者である」と評価している。
ヴィオッティはプニャーニの演奏旅行に生徒として同行したが、ヴィオッティがコンサートで主要なプログラムを担当ていること、演奏に対する高い評価を得たことなどを考えると、この旅行で"生徒"以上の活躍をし、実績を挙げたと考えられる。
ブランド氏の手紙には、ヴィオッティの演奏が行われたのはジュネーブの"Maison de Ville"と書かれている。
"Maison de Ville(市民会館)"という用語はジュネーブ市の研究レポートの中に使われていて、15世紀中頃に現在の市民ホールができた頃に付けられた名前である。
市民ホールの歴史を記した解説書の中には1726年に描かれた建築家ジャン・マイケル・ビロンの設計図があり、そこにも"Maison de Ville"と記されており、建物が面している道路の名前としても使われている。
なお、この設計図から当時の建物の構成が現在の建物と同じであることもわかる。
"Maison de Ville"はしばらく後に現在使われている"Hotel de Ville(市民ホール)"と呼ばれるようになった。
市民ホールの建物は現在もそのまま残っている。
この市民ホールにはボーデ・タワー(La Tour Baudet)と呼ばれる建物が連結しており、そこはコンセイユ・デタ(Conseil d'Etat/国務院)が15世紀以来使用している。
現在国務院の部屋はボーデ・タワーの2階、写真で十字の石枠の窓が見えるフロアーにある。
ヴィオッティが訪れた当時は、その一つ上の階に音楽演奏のためのサロンがあって、1766年に10歳のモーツァルトがそこで演奏したという記録が残っている。
ヴィオッティが演奏した"メゾン・ド・ヴィル"というのはボーデ・タワー3階にあったこのサロンであったと推測できる。
ヴィオッティとプニャーニはジュネーブからベルン、ドレスデンを経てベルリンに旅を続けた。
ベルリンではサルデーニャ王国の外交官であったフォンタナ伯爵の歓迎を受け、伯爵邸に宿泊した。
フォンタナ伯爵は毎週ベルリンからトリノの外務大臣に連絡を送っていたが、その手紙によりこの旅行の様子が明らかにされた。
フォンタナ伯爵の1780年4月22日のレポートでは、「プニャーニが前日の4月21日に、12月5日付けの外務大臣の推薦書をもってベルリンに到着した」、と報告している。
この推薦書の日付から、プニャーニとヴィオッティ12月中に、あるいは1月の初めにトリノを出発していたことがわかる。
プニャーニとヴィオッティがベルリンに着いた1780年当時は、フリードリヒ2世(大王)の勢力が最も大きかった時で、大王の宮廷にはいつも音楽家たちが集まっていた。
ヴィオッティはそのような大王の前で演奏する栄誉を得た。
フリードリヒ大王は人生のほとんどをポツダムのサンスーシ宮殿で過ごしたといわれている。
したがってヴィオッティはここにフリードリヒ大王を表敬訪問したのではないだろうか。
フリードリヒ大王の甥で大王の後を継いだフリードリヒ・ヴィルヘルム2世も音楽の庇護者で、「ヴィオッティはヴィルヘルム2世と妻のルイーザ王女にポツダムの宮殿で演奏を披露し喝采を受けた」、とフォンタナの報告がある。
ルイーザ王女にはヴィオッティの最初の器楽作品、二つのヴァイオリン、ヴィオ、チェロのための6曲の四重奏曲、作品1が献じられている。
また、ベルリンでは1781年にフンメル社からヴィオッティ最初の協奏曲であるヴァイオリン協奏曲第3番が出版された。
次の訪問地ワルシャワには1780年の晩秋に到着し、そこでもベルリンと同様の歓迎を受けたとヴィオッティは回想している。
ヴィオッティは当時のポーランド王スタニスワフ2世にも面会しているが、ワルシャワにあるスタニスワフ2世のラジヴィウ宮殿でヴィオッティはヴァイオリン演奏を披露したのだろうか。
プニャーニとヴィオッティは1781年1月にサンクトペテルブルクに到着し、そこでは女帝エカテリーナ2世の前でも演奏した。
ヴィオッティによって示された日付に従うとロシアに約1年滞在し、1781年の終わり頃までそこに留まった。
その後帰途に就くが、ヴィオッティはベルリンからパリへはプニャーニと分かれて旅をし、1781年の終わりから1782年の初め頃にかけてパリに到着した。
フォンタナ伯爵からの紹介状をもってベルリン宮廷と関係のあったバッジュ男爵を訪ねたと思われる。
そして1782年3月17日にはコンセール・スピリチュエルでパリ・デビューを果たす。

ジュネーブ市民ホールに連結されているボーデ・タワー
十字格子の窓があるフロアーの上階のホールでコンサートが開かれたと思われる
参考文献
菊池修、”ヴィオッティ”、慧文社(2009).
W. Lister, "New light on the early career of G.B.Viotti", Music and Letters, 83(2002), 419-425.
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