
GIOVANNI BATTISTA VIOTTI
イタリア北西部の小村フォンタネット・ポに生まれ、フランス革命期前後のパリとロンドンにおいてヴァイオリン演奏で一世を風靡し、近代ヴァイオリン奏法の父といわれるジョヴァンニ・バッティスタ・ヴィオッティの生涯を紹介する。
(6)ダル・ポッツォ・デラ・チステルナ邸
ヴィオッティが住むことになったダル・ポッツォ・デラ・チステルナ邸は1685年にダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家の所有となった。
この年、ダル・ポッツォ・デラ・チステルナの領主のジャコモ・マウリッツィオはフラミニオ・リパ侯爵と交渉し、それぞれが所有する館を交換することに合意した。
リパ侯爵は自分が所有していたマリア・ヴィットリア通り12番地の邸宅を手放し、その代わりとして中庭と庭園がある田舎屋敷、厩と全ての付属物、それに差額の金銭をダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家から受け取った。
この交換により、それ以降ダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家はトリノ市街中心に邸宅を持つことができた。
ダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家の邸宅は王宮から歩いて5分ほどのところ、当時のアスンタ地区サン・フィリップ通り、現在のマリア・ヴィットリア通り12番地にあった。
この建物は現在トリノ県の県庁と歴史図書館として使われている。この図書館にはヴィオッティ関連の書籍も数多く所蔵されている。


マリア・ヴィットリア通り12番地にある旧チルテルナ邸の正面入り口(左)と裏庭から見た建物
ヴィオッティが住んでいた頃の邸宅はどんな様子だったろうか。
トリノのCelidから2004年に発行された書物Il Palazzo Dal Pozzo Della Cisternaには邸宅の歴史が詳しく紹介されている。
1773年に作成された建物2階の見取り図と現在の建物を比較してみると、裏庭から見て(写真は裏庭から撮影したもの)建物の中央と右側には2階部分は当時はまだ完成していなかった。
ヴィオッティが生活していた場所は特定できないが、使用人たちは3階に住んでいたと思われるので、ヴィオッティの部屋は建物の写真の左側の3階にあったのでないかと推測できる。
この部分は1770年代にはすでに完成しており、そのままの形が現在も残されている。
ヴィオッティが住んでいた当時この邸宅では、ヴォゲーラ侯爵夫人とアルフォンソ王子ら子供たち、それに王子の家庭教師、お抱え医者、秘書、台所職員、お手伝いさん、厩要員などが働いていた。
アルフォンソ王子はヴィオッティがこの邸宅に来る前の5年以上ヴァイオリンを習っていて、彼のヴァイオリンの先生はチェロニアティであった。
ヴィオッティも1767年から68年(12〜13歳)にかけてチェロニアティから24週のレッスンを受けていた。
チェロニアティ一族は王室礼拝堂のオーケストラを支えてきた音楽一家で、当時カルロ・ロレンツォ、イニャッツィオ、カルロ・アントニオ、ヴィットリオの4人が王室礼拝堂楽団でヴァイオリンを担当していた。
このうち、王子とヴィオッティを指導したのはカルロ・アントニオ・チェロニアティと考えられている。
ヴィオッティは、トリノではダル・ポッツォ・デラ・チステルナ家で歓待を受け、音楽だけでなく社会人として必要な多くの教科を学んだ。
この貴族の館における経験が、後にパリ、ロンドンにおいて教養ある音楽家としてのヴィオッティを支えている。
トリノのダル・ポッツォ・デラ・チステルナ邸はマリア・ヴィットリアとアオスタ公爵を継いだ息子のエマヌエレ・フィリベルトにより逐次改修され、19世紀の終わり頃に現在の建物の外観が完成した。
内部の装飾については、これもマリア・ヴィットリアとエマヌエレ・フィリベルトにより、19世紀末までに天井、窓、床、壁の再建と装飾が完成した。
現在その豪華な装飾の中でトリノ県の公務が行われている。
ダル・ポッツォ・デラ・チステルナ邸は県庁の業務が休みとなる土曜日には公開されていて、あらかじめ予約しておけば邸宅の中を丁寧に案内してもらえ、豪華な天井画などを見ることができる。

トリノ市中心街
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(8)旧ダル・ポッツォ・デラ・チステルナ邸
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